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【最後の宰相、田中角栄⑥】初っ端の挨拶で勝負を制す。数字をあやつり、人をあやつる

人の印象は見た目が9割。確かに言えますよね。会った瞬間の最初の10秒で人の印象は決まります。
とにかく初っ端が大切です。田中角栄は最初の挨拶の名手でした。相手が「どんな人なんだ?」と真っ白な状態でいる間に、印象的な挨拶で心を捉えてしまう。大蔵大臣就任時の「できることはやる。できないことはやらない。しかしすべての責任は背負う。以上」。は有名ですが、通産大臣就任時の挨拶も絶妙でした。数字の威力をよく理解していたのですね。ご紹介します。ぜひ、参考にしてみてください。

●勝負を決めた初っ端の大臣挨拶
●通産大臣の就任時、入省年次で笑いをとる
●大蔵大臣の就任時、兜を脱ぎ、鎧を脱ぐ

目次

1-1、計算機よりも速く正確だった角栄の計算

「とにかく数字に強い人でした」。角栄が通産大臣、総理大臣の時、2期にわたって秘書官を務めた通産官僚の小長啓一さんが、こう証言しています。「コンピューター付きブルドーザー」の名の通り、東大出の官僚たちが計算機を使ってようやく計算できるようなものでも、角栄はさっと暗算してしまったというのです。角栄が「それは…。だいたいこれくらいということだな」と言った数字は大きく外れない。実際に計算機を使って計算した数字が、あとで計算機を使って計算した数字と、ぴたっと一致するという場面がしばしばあったといいます。

それくらい角栄は数字に強かった。いかに数字が大切で、威力があるものなのか、物事を進めていくうえで欠かせないものなのか、よく分かっていたのですね。

1-2、通産大臣の就任挨拶、事務次官の入省年次で笑いをとる

通産大臣に就任した時の角栄の挨拶もまさにそうでした。数字を的確に使った。政治家の言葉というのは抽象的な表現が多いものですが、角栄は違いました。数字を駆使し、威力を持たせた。その挨拶の内容はこうです。

「通産省に来てみたら昭和16年後期入省の事務次官(トップ)だ。自分は大学を出ていないが、仮に東大を出て(通産省に入省して)いれば16年前期だ」

「したがって(郵政大臣、大蔵大臣の時と違って)私にとって初めて後輩の次官が誕生した。これでようやく先輩面ができるのであります」

1971年7月のことでした。この挨拶でたくさんの官僚が集まっていた会議場はドッと湧きました。

角栄がこの挨拶で言っていることはこうです。

「自分は最年少で郵政大臣になった。大蔵大臣も44歳の時になった。その時、受け入れてくれてくれた郵政省、大蔵省の役員のトップはみんな自分よりも年上。遠慮しなければならないことも多かった。けれども今度の通産大臣は違う。役人側のトップは昭和16年入省で、自分とほぼ同じ。厳密にいえば半年だけ自分が先輩なんだ」

小学校しかでていない角栄が、東大卒の役人たちのように通産官僚になることはない。ありえない。しかし仮に父親の事業が順調で、自分が東大に行っていたら……、という前提の話です。ありえない話ですから、みんながドッと笑った。体裁は笑い話です。

けれども笑い話の体裁はとりながら本質をついています。今の通産官僚のトップは誰なのか、入省年次は何年なのか、きちんと把握し、数字を披露しています。「役人の世界をきちんと知っているんだからな」ということなんです。そこが凄いのです。

1-3、「きんと仕事をしろ。そうすれば出世させてやる」

霞が関の役人は入省年次がすべてです。先輩や後輩と競うことはありません。常に20~30人の同期入社のなか競争を繰り広げながら階段を上っていく。1年1年、血みどろの競争を繰り広げながら、毎年、競争で負けた官僚がドロップアウトし、勝ったものだけが次の年の階段を上っていく。そして最後に残った者が、事務次官となる世界なんです。

そんな厳しい役人の出世競争を角栄はよくわかっていました。それを自分はよくわかっているということを役人たちにわからせるために、入省年次を諳(そら)んじてみせたのです。

「きちんと仕事をしろよ。俺は細かく見ているからな。結果を出せば、上にあげてやる。出世競争も勝たせてやる」

角栄は笑い話の体で、こう言ったのでした。

こんな挨拶を初っ端でされたらどうでしょう。大臣に任命されてからこの挨拶をするまで、ほとんど時間らしい時間はありません。なのに通産省を動かすボタンがどこにあって、「自分はそれを知っている」ということを知らしめたのでした。

「今度の大臣は楽しい人だ」と本気で思った官僚はまずいなかったでしょう。もしいたとするなら、その時点で負けです。

「恐ろしい」

「侮(あなど)れない」

こう思ったに違いありません。実際、通産省の空気はピリッとしたといいます。

この時、通産省は日米繊維交渉という国益に絡む重要な案件を抱えていました。それを自分がやらなければならないこともわかっていた。角栄も相当、力が入っていたのです。総理になれるか、なれないか。日米繊維交渉をどうさばいていくかにかかっていた。だから角栄も内心はかなりピリピリしていたはずです。

この挨拶はそんな状況で角栄が発した役人たちへのメッセージだったのです。「一緒に突破しよう。働いたものはきちんと出世させてやる」。こういうことです。こんな挨拶をされたら、役人たちも安閑としているわけにはいきませんよね。

1-5、ストレート直球、どストライクの大蔵大臣就任時の挨拶

通産大臣の時、角栄は様々な大臣も経験し、「閣僚2つ分の重みがある」とされた幹事長もやった後でした。政治家としてはかなり円熟味を増していました。大蔵大臣をやった時とは全く違っていました。

ちなみに大蔵大臣の時の就任挨拶はこうです。これも名演説として今も記憶にとどめている人も多いでしょう。ご紹介しましょうね。

「自分が田中角栄である」

「ご存じのように、私は高等小学校卒業。諸君は全国から集まった秀才で、金融財政の専門家だ。しかし、棘(とげ)のある門松は、諸君よりいささか多くくぐってきていて、いささか仕事のコツをしっている」

「大臣室の扉はいつでも開けておくから、我と思わん者は誰でも訪ねてきてくれ。上司の許可はいらん」

「できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上」

勢いがありますよね。

1-6、若い時は若いなりに

角栄が大蔵大臣になった時は44歳。勢いはありましたが、まだまだ若い。東大のなかでも秀才中の秀才と言われる人たちが相手です。いくら角栄だって自信はなかったはずです。

だから真っ裸で体当たりしたのです。

「自分は小学校卒だ」。

「秀才の君たちとは違う」

「だけれど仕事はやろう。一緒にいい仕事をやろうじゃないか」

「大臣室の部屋は開けておくからいつでも訪ねてきてくれ。上司の許可なんかいらない」

こんなことを言われて嬉しくない官僚なんて一人もいないでしょう。若い角栄らしい挨拶です。これまた官僚たちを一瞬で魅了してしましました。

1-7、もし今、角栄がいたら…

角栄の時代は日本が元気で政治家も元気でした。企業もどんどん成長していました。みんなに活力があり、自信があった。だから角栄のような政治家が登場したし、活躍できたんだともいえます。

しかし、角栄が今、この時代に帰ってきたとしてもやはり一瞬で人を魅了し、人心を掌握してしまったのではないでしょうか。

政治の世界でもビジネスの世界でも最初の挨拶はとても重要です。天気や趣味、健康の話をしながら、少しずつ相手の懐に入っていく方法もあるでしょう。しかし、角栄はおしなべて単刀直入、それでいて嫌われず、下品でもない。なかなかできない挨拶ですよね。

参考にしていただければ幸いです。ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。

まとめ

●最初の挨拶はその後を決める。角栄はいい加減な話はしない
●きつすぎず、緩すぎず。しなやかに相手の心をつかむ
●単刀直入、意味のある言葉こそ大事にした角栄

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著者情報

ニックネームはハチマキめがね 。下水道の清掃員、マンホールから地下にもぐり数百匹のゴキブリとウンチまみれのドブねずみと対決→生鮮市場 でサンマやイワシなど小魚を売る。毎日、ギャング集団のマグロチームに追い立てられ少し弱り気味。市場の新鮮な旬の魚で一杯やるのが何よりの楽しみです。ド底辺の世界から世間をながめ、気になる話題を独自の切り口で語ってみました。「満月」のように太陽の光を浴びて夜道をやわらかく照らすような存在でありたいと思います。よろしくお願いします!

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