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小池百合子優勢 芦屋令嬢からカイロ大首席卒 東京都知事3選まで

7月7日の東京都知事の投開票が目前ですが、小池百合子氏の当選の可能性が高まってきています。

「カイロ大学首席卒業」問題では側近の小島敏郎氏から公職選挙法違反で告発されたほか、エジプト時代に2年間をともに暮らしたルームメイトが実名で「虚偽」と明かすなど逆風も強いのですが、新聞社の調査などでは優勢が伝えられています。

私も実際、直接本人が「海外にいる日本人に選挙権を持たせればいいのに。エジプトの票が入って選挙が楽になるわ」と言っているのを聞いたことがありますが、どこまでカイロ大学卒を押し通し東京都知事の椅子にすわるつもりなのでしょう。

3選がほぼ確実になってきた小池氏。自称「芦屋で育ちの令嬢」が「カイロ大学を首席で卒業」し、東京都知事3選するまでをご紹介します。是非、ご覧ください。

 

●絵にかいたような「芦屋の令嬢」
●関西学院大学ではなぜダメだったのか
●運命を大きく変えた「カイロ大卒」

 

 

目次

芦屋、甲南、関学――散りばめたお金持ちブランド

芦屋「令嬢」は早とちり?

小池氏が育ったのは兵庫県芦屋。

谷崎潤一郎の『細雪』の舞台となったこともあり、関西の人でなくても高級住宅街として、その名前を知っている人は多いと思います。

小池氏も「芦屋育ち」と聞くと「なるほど令嬢なんだ」とすぐに連想を働かせてしまいますが、それは少し違います。

まず「芦屋=高級住宅街」と考えるのは間違いです。私も実際に芦屋に住んだことがありますが、イメージとは大きく異なり実に雑多なエリアなんです。

芦屋には阪急、JR、阪神の3路線が走っており、どの沿線付近なのかで、雰囲気も住む人の年収、資産も大きく異なります。

被差別部落も抱えており、関西を代表するお金持ちもいれば、その日暮らしをする人もいます。

本当にいろいろな人たちが住み、様々なエリアを併せ持つのが芦屋なのです。

小池氏が住んでいたのは決して富裕層が住む瀟洒(しょうしゃ)な豪邸が集まっているエリアではありませんでした。

線路わきの小さな家がひしめく、庶民的なエリアです。

敷地も狭く、少なくとも世間一般でイメージする令嬢とはニュアンスが異なります。

 

勉強は良くできた

小池氏は1959年、芦屋の公立小学校に入学しました。

関係者の話では「それほど目立つタイプではなかった」けれども「よく勉強はできた」そうです。

小学校5年生の時には校内の弁論大会で優勝しました。

ちなみにこの時の弁論のタイトルは「ウソも方便」。その後の小池氏の人生を暗示しているようで少し皮肉ですよね。

でも、巧な表現者としての才能はすでに子供の頃から備わっていたようです。

 

お嬢様中学校に進学

小池氏の父親は上昇志向の強い人でした。

国政選挙にも出馬しました。

見栄を張ることも多かったようで、その影響もあって、小池氏は1965年、関西では有名なお嬢様学校である甲南女子中学校に進学します。

関西では「お金持ちの学校」としてブランド力がとにかくあります。

そのまま甲南女子高校に進みますが、英語が好きでESSの英語劇などでは発音の綺麗さで周囲を圧倒していたと言います。

お嬢様学校には珍しくアルバイトにもいそしみ、休暇の際には住み込みで働くこともしていました。

 

関西のブランド大、関学へ。1学期で退学

1971年には関西学院大学社会学部に進学します。

良妻賢母型が多い甲南女子高校はかなりの割合で甲南女子大学に進むのですが、小池氏は違いました。

小池氏の同級生も皆驚いたといいます。

バイタリティーと生命力が常人とは全く違いました。

ところが小池氏が意を決して入学した関西学院大学も1学期が終わったところで退学してしまいます。

関西学院大学は関西では有名大学でして、神戸周辺に基盤を置くこともあって同志社大学や立命館大学などと比べると垢ぬけた学生が多く、優秀で「おしゃれ」なイメージが強い大学です。

松下電器産業(パナソニック)社長も輩出するなど、就職先もその後も良いことで知られます。

とはいえ、それでも言ってしまえば関西圏の私立大学です。

きちんと卒業しても「将来は見えている」と小池氏は思ったのでしょう。

突如、1971年9月にエジプトに渡りました。

小池氏のオフィシャルサイトではエジプトに渡った理由を「アラブ世界の将来性が大きいと考えたから」と説明していますが、動くときは電光石火で動く、小池氏の真骨頂はすでにこのころから発揮されていたのです。

ちなみに留学の決意を伝えたとき、小池の母親は「いいチョイスね、卒業するまでは帰ってこないこと」と即OKしてくれた、と言います。

そのまま「芦屋令嬢」「甲南女子高」「関学」とブランドを身に着けて生きていけば、それなりの人生になったはずです。

しかし、小池氏はそれを良しとしなかった。舞台は全国区、世界でなければ…..。

女帝の欲望は飽き足りない、限りないのです。

1年の語学研修、翌年に名門カイロ大学へ

親のコネでカイロ大2年生から編入

エジプトに渡り、はじめの1年間はカイロ・アメリカン大学東洋学科でアラビア語を学びました。

そしてその翌年の1972年の10月にカイロ大学文学部社会学科に入学します。

これが凄いですよね。

日本語を勉強したこともないエジプト人の学生が、1年間日本語学校で学んだ後、東京大学に合格したと聞いたら、どうでしょう。

誰でも驚くでしょう。

カイロ大学は英国保護下にあった1908年に創立された名門国立大学、アラブ諸国から優秀な留学生が集まる憧れの大学ですが、その大学に小池氏は1年の勉強で合格し入学を果たしたのです。

それだけではありません。

小池氏は2年生として入学するのです。

いわゆる編入です。

『女帝 小池百合子』(石井妙子著)によると、小池氏は「父親のコネで編入した」とルームメイトに説明していたというのです。

これが事実かどうかは確認できませんが、いくつもの幸運が重なり、小池氏はカイロ大学入学を果たしたのでした。

 

拙いアラビア語

問題はその後です。

小池氏はカイロ大学でいったい何を学んだのでしょうか。

ルームメイトの証言によりますと、それほど一生懸命に勉強していたようには見えなかったと言います。

男友達の出入りも多く、勉強どころか1973年2月からは日本人留学生との結婚生活もスタートさせたそうです。

そういった調子ですから小池氏の部屋に残されていたノートには英語で言えば「This is the pen」程度の拙(つたな)いアラビア語が書かれていて、とてもアラビア語ができるというレベルではなかったそうです。

確かに小池氏が何かの討論番組で中東について深い知識や見識を披露する場面を一度もみたことはありません。

 

 

「サダト大統領が来る、帰ってこい」

1976年9月、小池氏の人生が劇的に変わります。

父親から「サダト大統領が来日、急いで帰ってこい」との連絡が入ったのです。

小池氏は必死で自分の持ち物を売り払い、お金をつくり日本に帰国しました。

最後は使いかけの口紅まで売ったといいますから、お金には相当、苦労していたようです。

それほど苦労しているのになぜ、日本に帰らなければならなかったのか。

エジプトの1学生とサダト大統領との間にどんな関係があったのでしょうか。

実はこの時点では関係らしい関係は何もありませんでした。

しかし、そこは小池氏です。

分け入ってくる。

そして実際に分け入ってしまうことに成功しました。

縁に縁を手繰り寄せ、サダト夫人のエスコート役に抜擢されたのでした。

運が味方したのです。

なぜ夫人なのかといいますと、ジハン・サダト大統領自身は中東戦争の関係でどうしても国を離れられなくなったからでした。

そのために大統領自身は来日することがかなわず、代わりにサダト夫人がお嬢さんを同伴し代理で来日することになったのです。

いかに小池氏が強運の持ち主なのか。

もし、予定通りサダト大統領が来日していれば小池氏の出番はなかったでしょう。

あったとしても決して目立つことはなかったはずです。

当時、夫人もお嬢様もカイロ大生でした。

小池氏も「カイロ大卒」。

ちょうどサダト夫人が来日した1976年10月にカイロ大学を卒業したことになっています。

自身の公式サイトでもそう公表しています。

つまり、サダト夫人、お嬢さん、そして小池氏は同窓というわけです。

それが格好の話題となりました。

サダト大統領自身が来日できないなら、トップ会談が成立しないのですから日本とエジプトとの間で外交は実質的に動きません。

しかし、中東のエジプトは当時、石油ショックに見舞われていた日本にとっては重要な相手なので、無視することはできません。新聞も紙面を空けて待っていたけれど実質的なニュースはない。

何か書かないと……。

で、出てきたのが、「エスコート役に芦屋のお嬢さん」(産経新聞)、「小池百合子さん、令嬢とは同級生、カイロ大新卒、唯一の日本人女性」(東京新聞)といった記事でした。

これで小池氏の人生が大きく変わっていきます。

 

カイロから開けた小池氏の人生

「そういうことにしちゃった」

1カ月ほど日本で過ごし1976年12月、小池氏は興奮気味にカイロにいったん帰ります。

日本での活躍を伝える記事をルームメイトに嬉しそうに見せたといいます。

しかし、ルームメイトが引っ掛かったのは小池氏の活躍よりも「カイロ大卒」の方でした。

「百合子さん、そういうことにしちゃったの?」と聞くと小池氏は「うん」と答えたと証言しています。

小池氏はカイロ大を卒業したのか、しなかったのか。

もやもやの疑惑を抱えつつ小池氏は1976年12月、日本に帰国します。

 

日本新党に参画

1976年12月に日本に戻ると小池氏の人生はどんどんと開けていきました。

1977年には大協石油で週二回働く嘱託、その後、日本テレビの専務であった上子俊秋氏との縁を得て、日本テレビへ。

1979年4月には「ルックルックこんにちは」の「竹村健一の『世相講談』」のアシスタントとしてタレントデビューします。

その後、1988年春からは夜11半からの経済ニュース番組ワールドビジネスサテライトの初代メインキャスターに抜擢されます。

講演や対談にも出演するようになります。

そして1992年5月、細川護熙氏が新党を結成するとここに参画、キャスターから一転、政治家へ。「選挙はミニスカート、ハイヒール」で通すと宣言するなど話題を振りまき、初登院の8月7日にはサファリルックで登場し「国会には猛獣とか珍獣がいらっしゃる」と発言、メディアをひきつけました。

政治家として世間の関心を引き付けていくのですが、とりわけカイロ大については雑誌や新聞のインタビューで「日本人女性として留年せず卒業したのは初めて」「首席で卒業した」と何度も発言しました。

カイロ大のブランドを盾にして権力の階段を駆け上がっていったのでした。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

まとめ

 

●「芦屋の令嬢」には疑問符
●「芦屋」「甲南」「関学」の関西ブランドでは満足できずカイロへ
●「カイロ大」卒の肩書で人生が一気に広がった

 

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著者情報

ニックネームはハチマキめがね 。下水道の清掃員、マンホールから地下にもぐり数百匹のゴキブリとウンチまみれのドブねずみと対決→生鮮市場 でサンマやイワシなど小魚を売る。毎日、ギャング集団のマグロチームに追い立てられ少し弱り気味。市場の新鮮な旬の魚で一杯やるのが何よりの楽しみです。ド底辺の世界から世間をながめ、気になる話題を独自の切り口で語ってみました。「満月」のように太陽の光を浴びて夜道をやわらかく照らすような存在でありたいと思います。よろしくお願いします!

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