1972年7月7日。この日、自民党総裁選で福田赳夫を破り「角福戦争」を制した田中角栄は日本の首相となります。
念願の総理のポストを射止めた角栄。初日から仕事に取り掛かります。「首相に就任した今は政治権力の絶頂だ」として最も難しい問題に向き合うことを決めるのです。それが日中国交正常化でした。これが米国の不興を買うロッキード事件に発展する伏線となるのですが、そのことをこの時にはまだ角栄はしません。「首相になったさあ、やるぞ」。権力を掌握した瞬間に一歩を踏み出した角栄。首相になること自体が得なかったことが良く分かります。ご紹介させてください。
このブログは以下のポイントでまとめています。
●通産大臣から首相へ。秘書官をそのまま引き上げたのはなぜ?
●首相になることが夢だった?
●なぜ、難問の中国問題に手をつけたのか?
1、首相は僕だ。秘書官は君だ。
首相になったその初日。角栄は秘書官を部屋に呼びます。
「やってもらいたいことがある」
「引き続きよろしく頼む」
通産大臣の秘書官を務めてきた小長啓一氏に、自分が総理になっても、今度は首相秘書官となってそのままやってくれ、と頼んだのです。通常なら通産大臣を終えて首相になったのですから、秘書官は退任、通産省に戻ります。しかし、退任しないでそのまま続投、自分の仕事を手伝って欲しいと言ったのでした。
通産大臣、首相と続けて秘書官を続けた例はこれまでありません。異例中の異例です。なぜ、それほどまでに角栄は小長氏を重用したのでしょうか。
「東大法学部卒ばかりの官僚のなかで、小長は珍しく岡山大卒。小学校卒の角栄には使いやすかった」
「『日本列島改造論』を中心になって仕上げた小長と一緒に日本を改造しようとした」
憶測はいろいろあります。
しかし、最も確かな理由は「仕事の空白期間を作りたくなかった」から。これは間違いありません。秘書官を刷新するとどんなに優秀な官僚でも、なれるまで時間がかかります。角栄との息も最初はピタリとは合いにくい。どうしても最初からトップギアで仕事をするわけにはいきません。角栄はそれを嫌いました。すぐさま仕事に取り掛かりたかったのです。
2、俺は今、絶頂期。だから難問をやる。
角栄が首相になったその日から着手したかった、その仕事とは……。それが日中国交正常化でした。
角栄はこう言います。
「中国では毛沢東や周恩来ら革命第一世代が実権を握っている。彼らの目の黒いうちにこの問題を片付けたい。日本企業でも第二、第三世代になると社内の意見が割れて大変だろう。戦後補償の問題もある。だから第一世代が元気な今のうちに決着を付けてしまわなければならない」
これは角栄が秘書官の小長氏と一緒に車に乗り移動中の時のことです。
当時、日本は中国ではなく台湾を大陸の窓口と定めていました。台湾を正式な国として認め、台湾の国民政府との間で日華平和条約まで締結していたのです。
日中の国交を正常化するということは、「大陸の窓口を台湾から中国に切り替える」ということを意味します。なぜなら、台湾と中国は対立関係にあったからです。中国にしてみれば「台湾は中国のなかの一つの省に過ぎない。中国の領土だ」との主張でしたし、台湾はもちろん、そんな中国の主張は到底、受け入れられません。
そもそも当の日本も台湾を一つの国として認め平和条約まで結んでいるのです。なのに、その台湾を「いや違う。俺の領土だ」と主張する中国と国交を正常化させるなら、そのまま中国が言う「台湾は中国の領土だ」という主張を認めたことになるのです。台湾は当然、怒りますよね。
だから難問だったのです。
3、権力は使うもの。しがみつくものではない。
角栄は首相に就任した瞬間に、この難問に取り組む決意をします。
角栄は秘書官の小長氏にこう言ったと言います。
「俺は今、『今太閤』と呼ばれている。
首相に就任した今が政治権力の絶頂期だ。
最も支持が強い時に、もっとも難しい問題をやる。
俺にはやらなければならないことがある」
いかがでしょうか。
仕事をする首相。権力の本質を理解していますよね。権力にしがみつくのではなく、権力を道具として使い、仕事をする。本物の首相ではありませんか。
4、最後に
実際、このあと角栄は見事に日中国交正常化をまとめ上げます。まで、米国も成し遂げていない中国との外交樹立を、日本が先手を打って、やってしまったのです。
今なら考えもつかないことですよね。外交で日本が米国を出し抜いたのです。米国はニクソンを電撃訪中までさせ自分が主役となって中国を国際舞台に引き戻そうとしていたのに、その頭越しで日本がそれをやってしまった。痛快じゃありませんか。
もちろん、米国は不快だったに違いありません。福田赳夫がもし「角福戦争」に勝ち首相になっていたら、絶対にありえなかったことです。しかし、角栄はやった。米国の話を通すことなくパッとやってしまった。これが米国の不興を買い、その後のロッキード事件に発展していくのですが、この時の角栄はまだ知りません。ただ、日本の宰相として独自に外交を展開、どうどうと自国の利益を追求してみせたことは立派だったといえるでしょう。
いかがでしたでしょうか。最後までお読みいただき本当にありがとうございました。
●仕事の空白を嫌い秘書官を続投させた。
●権力の絶頂期を自覚、難問である中国問題に即、着手した。
●米国すら出し抜いた外交。日本の存在感を示した。