1971年、田中角栄が通産大臣になると待ち受けていたのは日米繊維問題でした。
猛烈な勢いで輸出攻勢をかける日本の繊維業界。いらだつ米国。8年もの間、日本と米国との間でしこり続け、この決着をどうつけるか。時間はもうありません。田中角栄は試されました。そして見事にやってのけたのです。沖縄の返還問題も動き出し、舞台は回り始めました。田中角栄の目の覚めるような政治手腕をご紹介させてください。スカッとします。是非、読んでみてください。このブログでは次のポイントを解説しています。
●官僚のプライドを尊重し操縦
●国益を考え、産業を守った
●責任を一手に背負い、総理と話しをつけた
1 辣腕政治家の田中角栄がやってきた
1971年7月、角栄は大臣として通産省にやってきます。郵政大臣、大蔵大臣、自民党幹事長を歴任した凄腕の政治家。「角栄がくるんじゃあ、こりゃあ、通産省も大変になるぞ」。官僚たちはてんやわんや、省内は蜂の巣をつついたような騒動ぶりだったといいます。
当時、通産省は米国との間で、繊維摩擦という大問題を抱えていました。米国の大統領はリチャード・ニクソン。繊維業者がひしめく南部諸州を大票田として抱えるニクソンにとって、日本の繊維業界は「叩くべき相手」。日本側は繊維業界を守りながら、摩擦をどう抑えるか、が問われていました。大平正芳、宮澤喜一という二代の通産大臣が取り組んでも解決できなかった難問です。
2 「君らの言う通りでやろう」
最初、角栄は通産省の官僚の振り付け通りに動きます。官僚たちから日米繊維問題について一通りレクチャーを受けた角栄。何も言わず静かに聞き終えたあとにこう言ったのでした。
「分かった。君らの言う通りでやろう」
官僚たちは拍子抜けです。「今までうまく行かなかったんだ。やり方を変えろ」。そう言われるものとばかり思っていたからです。しかし、そうは言わなかった。「日本の毛・化合繊は米国に対して何ら被害を与えていない。だから規制はしない。貿易は自由だ」と、関税貿易一般協定(GATT)のルールに乗っ取って、米国側の主張を突っぱねます。
通産官僚が書いたシナリオ通りです。側で見ていた高級官僚は「完璧だった」と証言しています。角栄も相当、勉強したのでした。
3 米国との交渉、いったん決裂
しかし、納得しないのは米国でした。「日本が突っぱねてくるなら、こちらもやる」。ついに米国側は日本からの繊維輸出を一方的に制限する措置を準備しはじめます。実行されれば日本の繊維業界は一巻の終わりです。強硬策で米国の主張を突っぱね続けるのは、限界に来ていました。
ここで角栄が動きます。官僚たちを集め、こう言ったのでした。
「ここまで俺は君たちが言う通りにやった。君たちの振り付け通りにやった」
「はい。大臣。その通りです。ありがとうございます」
「しかし、君たちの言う通りにやったが、結果は悪くなった。さあ、これからだ。どうする」
通産官僚は誇り高き人たちです。プライドという点では大蔵省に負けてはいない。角栄はまずはそのプライドを尊重しました。いくら剛腕政治家だからといって、誇りを傷つけるようなことはしませんでした。まずはやらせてみせ、自分もやってみせた。そのうえで、誰の責任も問わずに、今度はみんなで方向転換を図る決断をしたのでした。
こうなると官僚たちの負けです。もちろん角栄は問い詰めたり、叱責したりすることはしません。「さあ、どうする」と自分も官僚たちと一緒になって考える態度をとったのです。
どうでしょう、この組織の操縦術は。官僚たちを頭ごなしに叱責することなく、尊重する。そして組織を次の方向に向けていく。素晴らしくありませんか。こうなると官僚たちから出てきた言葉はこうでした。
「大臣、案をつくります」
米国との交渉が再び動きだしたのでした。
4 面子(メンツ)を守り国益を守る
1週間かかったといいます。官僚たちは徹夜の作業を繰り返し、代案をまとめてきてくれました。でてきた内容はこうでした。
「日本は米国への繊維製品の輸出を自主規制する」
「日本の繊維業界は自主規制で利益を失う」
「失った利益に見合う分だけ、繊維業界が抱ええる老朽化した設備を政府が買い上げる」
「米国側は納得し沈静化する」
どうでしょうか。米国の面子(メンツ)は立つ、日本の繊維業界も納得する。いい案ですよね。通産官僚と角栄が一体になって考え出した案でした。
5 「問題は金だけか。よしっ、俺が話をつける」
しかし、一つだけ問題が残りました。お金です。お金がかかりすぎるのです。総額で2000億円。これは極めて巨額です。当時、通産省の一般会計の予算は4000億円。その半分を繊維業界の利益補填(ほてん)に振り向ける計算ですから。普通ならできない相談です。
けれども、その後の角栄の動きは早かった。
角栄は官僚に聞きます。
「問題は何だ?」
「予算です。お金がかかりすぎます」。官僚が答えます。
「金? それだけか?」
「はい」と官僚。
「よし、分かった。俺が話をつける」
そしてすぐに総理の佐藤栄作に電話し、まとめてしまったのです。
角栄が通産大臣になってたった3か月。8年かけても決着しなかった日米繊維摩擦が終わった瞬間でした。
まとめ
もし、この時、角栄が米国との間の繊維問題を解決してなかったら……。沖縄の返還は実現していなかったかもしれません。外交はどう転ぶか分かりませんから。角栄はそのことを知っていたでしょう。国益を考えれば、2000億円など安いもの。そう考えていたかもしれません。
いずれにしても日本の優秀な官僚をうまく操縦し、国益も産業も守った。今、欲しい政治家ですよね。