リーダーというのは「仕事のしどころ」をよくわきまえているものです。田中角栄もそうでした。
ここは政治家の仕事だというところは逃げずに受けて立ちました。日米繊維交渉の大詰め、繊維業界のドンが役所に押し掛けてきた時も逃げずに対決しました。
そばで見ていた秘書官は「圧巻だった」と証言しています。このブログではその時の様子を振り返ってみますね。なかなか今の政治家ではみられない豪胆な一幕です。
このブログでは次のようなポイントで紹介しています。
●日米繊維交渉、憤った日本の繊維業界と真っ向から対峙
●アポなしでの怒鳴り込み。そのまま大臣室に通す
●受けなければまた来る。会えば一発解決
1-1、米国との交渉は無事、決着
1971年10月。
8年間、日本と米国との間で、しこり続けた日米繊維問題は決着しました。
角栄が通産大臣になって、たった3か月。角栄は官僚たちを束ね、電撃的にこの問題を片付けてしまいました。
2000億円という巨費を日本の繊維業界に投じる代わりに、日本から米国への繊維製品の輸出を自主規制させるとの案です。
米国の繊維業界から「日本の猛烈な輸出攻勢を何とかしろ」と、突き上げを食らっていたリチャード・ニクソン大統領も引くに引けぬ状態でしたが、日本側から矛を収めてくれたことで、面子(メンツ)は保たれました。
1-2、「米国との関係悪化は絶対に避けたい」と総理の佐藤栄作
繊維交渉を収めるための2000億円という金額は、当時としては大変、巨額な金額でした。
通産省の予算の半分です。
ここまで巨額の資金を繊維業界の輸出規制の見返りとして支出することは極めて異例でした。
裏には米国との間で、沖縄返還交渉が進んでいて「米国との関係悪化は絶対に避けたい」という佐藤栄作総理の思いがありました。
角栄から「2000億円を用意していただきたい」と直談判された時も、すんなり丸のみするしかありませんでした。
1-3、収まらない誇り高き繊維マンたち
それでも収まらないものが1つだけ残りました。
日本の繊維業界です。
敗戦後の日本の高度成長を支え、日本の復興を支えてきた繊維業界には東大、京大など有名大学を出たトップエリートたちが多くいました。
「日本のために」と必死で高品質で安価な繊維製品をつくり輸出し外貨を稼いできた。
それを突然、「金を出すから、手を緩めてくれ」と言われてもできない相談だ、というわけです。
もちろん角栄は、体裁も整えていました。
繊維業界が抱える老朽化した生産設備を、政府が買い上げる、その金額が2000億円だ、というわけです。単に国からお金をばら撒いてもらうわけではない。
誇り高き繊維マンたちの面子(メンツ)にも角栄は配慮していました。
それでも繊維マンたちは収まらなかったのです。
1-4、「大臣はいるか。許さん」
繊維業界のドンたちは霞が関に押し掛けてきました。
「われわれを犠牲にする内閣打倒」というプラカードまで上げて。
帝人の大屋信三ら日本繊維産業連盟のドンたちは気色ばんでいました。
「大臣はいるか」
「許さんからな」
通産省に怒鳴り込んできました。アポイントも何もありません。
「大臣はいるか」
「田中角栄はいるか」
興奮し切っていました。
当然、こうなると手がつけられません。のこのこ角栄が出ていったら火に油を注ぐだけです。
そもそもアポなしでやってきているのですから会わなくたって「予定が入っていますから」で通ります。
ただ、相手も経済界の大物たちですから顔も立てなければならない。秘書官の小長啓一氏も「まずは繊維局長に通しましょうか」と尋ねたそうです。
しかし、角栄はこう言いました。
「俺が会う。そのまま大臣室まで通せ」
そして角栄は続けてこう言いました。
「これは事務的な話ではない。政治の話だ」。
事務的な話ではないので事務方が出ていく話ではない、政治の話だ。政治の話なら政治家の俺が行かなきゃ話にならんだろう、というわけです。
言葉通り角栄は繊維業界のドンたちを大臣室に通しました。最初から業界のドンたちはぶちまけ続けました。「何で米国に押し切られた」「国を売る気か」「繊維産業はこれでつぶれるぞ」
これに対し角栄は丁寧に応じます。
「言いたいことはよくわかる」「確かにその通りだ」
いったん、相手の言い分を受け止めます。
そのうえで
「自主規制で失う分については2000億円を用意した」
「一定の伸び率もとった」
「生産設備だって刷新できるじゃないか」
と一つ一つ押し返す。
「君たちの言うことはその通りだ。しかし、国には国の事情がある。申し訳ないが、受け入れるわけにはいかない」。
30分ほどそんなやり取りを続けたが、結局、物別れに終わり、繊維業界のドンたちはカンカンに怒ったまま帰っていきました。
側近たちは青ざめました。「これはまずいな。相当、こじれるぞ」と感じたそうです。せっかく米国との間で妥結した繊維交渉が足元で、つまずき最初からやり直しになるかもしれない。そう思ったそうです。
1-5、「大丈夫だ。目は笑っていた」
しかし、角栄は違いました。
カンカンになって帰っていく繊維業界のドンたちの背中を見ながら、秘書官の小長氏にこう言ったそうです。
「これで大丈夫。解決だ」
小長氏は一瞬、理解ができませんでした。しかし、角栄が言うのはこういうことでした。
「彼らが怒鳴り込んできたのは建前だ。建前で来ている。大臣に直接会って『ああいってきた』『これもきちんと伝えた』、そういわないと『国に勝手に決められて何だ。繊維業界を代表して意見を言ってきてくれ』と彼らの背中を押している連中に説明ができない」
「今日、俺が話を聞いた。全部、聞いた。それでいいんだ。それで終わりだ」
角栄は人の間合いがよくわかっている政治家でした。相手の本音を的確に見抜いた。この時もそうです。実際、この出来事をきっかけに繊維業界も少しずつ、沈静化していったそうです。
もし、この時、角栄が会わずに事務方、繊維局長が会っていたらどうでしょう。繊維局長なら角栄以上に繊維業界のことが良く分かっている。繊維業界の人たちが言っていることがいかに合理的で理にかなっているか角栄以上に理解できたでしょう。気持ちも分かったはずです。
でも、決着はしなかった。繊維業界のドンたちはまたやってきたはずです。「局長では話にならない」「大臣だ。大臣に話をさせろ」。そう言ってきたに違いありません。
それではダメなのです。米国との交渉が妥結した以上、日本でもめているわけにはいかない。ズルズル長引かせては、いられない。それでは沖縄返還問題にも支障が出てくるのです。
角栄はそこが分かっていました。だからこそ自分が出ていった。それで一発解決です。
角栄は最後に秘書官の小長氏にこう言ったそうです。
「大丈夫。彼らの目は笑っていたよ」
1-6、まとめ
角栄という政治家、実に物事のツボが分かっていますね。大切なものとそうでないもの、今でないと駄目なものと、先送りができるもの――。このブログでご紹介しました繊維業界との対決はいつかは、しなければ、ならなかった対決です。そうでなければ日米繊維交渉はいつまでも終わりませんでした。角栄は「俺が会う」と自ら出ていき、徹底的に話を聞き、徹底的に説明もした。
話が平行線をたどることなど会う前から分かっていました。しかし、会う、話を聞く。そのこと自体がとても大切だと分かっていたのです。だから会った。それでいいのです。それがすべてだったのです。だから相手が内心では満足したのが分かった。
「彼らの目は笑っていたよ」というのは、そこまで見抜いた角栄だからこその言葉です。さすがの洞察力ですね。
ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。何かの参考にしていただければ幸いです。