猛烈さ、剛腕さばかりが際立つ田中角栄。しかし、母親のフメさんは素朴で優しい日本の母でした。
角栄が通産大臣になりお国入りした際、フメさんは同行した秘書官を上座に座らせ、深々と頭を下げたといいます。「どうか、角栄をよろしくお願えします」。素朴で細やかな気遣いを忘れないフメさんの振る舞いを見て秘書官は「この母親に育てられたのなら角栄という人物は間違いない男だ」と思ったそうです。そしてますます角栄が好きになったのでした。秘書官の心を打った角栄の母、フメさんをご紹介させていただきますね。温かい気持ちになるエピソードなので是非、ご覧ください。
このブログは次のポイントを紹介させていただきます。
●通産大臣としてお国入り、母フメが見せた素朴さ
●秘書官を上座に座らせ「角栄をよろしくお願えします」
●父親の生業不振で苦労の続きの田中家
1-1、繊維交渉片付けお国入り
1971年、角栄は通産大臣になります。たった3か月という驚異的なスピードで、8年間の懸案だった日米繊維交渉を決着させ、ポカっと日程があいたというので、角栄は新潟にお国入りをします。郵政大臣、大蔵大臣を経て自民党の幹事長という重責もこなし、今度は通産大臣になったというのでふるさとの新潟県柏崎市西山町に挨拶に帰るというわけです。
この時、角栄のお国入りに同行したのが、通産官僚の小長啓一氏でした。このお国入りの時のことを小長氏は振り返り、角栄の母フメさんのことを新聞のインタビューでこう語っています。
「何ともこちらの胸が痛くなるような人だった。まさに痛み入る感じだった」
1-2、秘書官は上座、自分は下座に
柏崎市西山町の角栄の生家は今も残っていますが、決して大きいとは言えない普通の農家です。山あいの田んぼの中にぽつんと立つ一軒家で、田んぼも八、九反ほど。その家で母親のフメさんは角栄たちお国入りの一行を迎えました。
奥からでてくると「遠く東京からお出でになってお疲れでございましょう。さあ、どうぞお座りください」と上座に座布団を置いて「さあ、さあ、どうぞ」と秘書官の小長氏を上座に座らせようとしたのだそうです。
これには小長氏も困ってしまいました。相手は通産大臣の母親です。普通の農家の婦人であっても、普通ではありません。
「とんでもありません。僕はこちらに」
下座に座ろうとする小長氏を押しやってまた
「どうぞ、どうぞ。こちらに」と、とうとう上座に座らせてしまったといいます。
そして手をついて深々と頭を下げてこう言ったのでした。
「お世話になっております。どうか、角栄をよろしくお願えします」
とにかく腰の低い方だったそうです。通産大臣の母親だから、と偉ぶったりするところは微塵もない。本当に優しく繊細な日本の母を絵に描いたような人だったといいます。
角栄はこの秘書官の小長氏と母親のやり取りを何も言わず、笑いながら少しバツが悪そうに静かに見守っていたそうです。
1-3、働きづめに働いた角栄の母フメ
「お袋には頭が上がらないんだ」。
あとで角栄は秘書官の小長氏にこう話したといいます。
フメさんは本当に苦労に苦労を重ねて角栄を育てました。
「お袋が寝ている姿をみたことがない」
角栄はいつもそう言っていました。働きづめに働いた。
なぜフメさんはそんなに苦労をしたのでしょうか。ご紹介しますね。
1-4、山師の父角次、貧乏にあえいだ田中家
角栄には姉2人に妹4人、田中の上には角一という兄がいましたが、赤ん坊のとき病死してしまい角栄は実質的に長男坊として育てられます。
田中家の問題は父親の角次でした。
田中家には多少の山林はありましたが、角次の本業は馬喰の鑑札を持った牛馬商でした。牛馬商は当たれば儲かる。しかし、はずせば巨額の損失が出るリスクの大きい商売でした。角次は北海道に大牧場を持つことを夢に持っていて、よく幼い角栄を膝の上に乗せ、「角よ、いまに北海道にでっけい牧場をつくる。そこで、遊べる。楽しみにしておれっ」と角栄を喜ばせたといいます(週刊実話)
牛の改良にも熱心で、ある時、オランダからホルスタイン種の乳牛3頭の輸入を計画します。2頭は北海道へ送り、1頭は新潟に置いて乳牛とするという算段でした。1頭1万5000円ほど。米が1俵6、7円の時代だっただけに金策は大変でしたが、山林を処分し、あとは知人からの借金で賄いました。
ところが、横浜港に着いた牛のうち2頭が、オランダからの長い船旅と夏の暑さも手伝ってか、すでに死んでしまいます。残った1頭もかすかに息はあったが、獣医の手当ても空しく間もなく死んでしまいました。
その夜、角次は大荒れに荒れました。「このとき、父の苦しんでいることは分かった。この不慮の出来事を境に、父の事業は悪化していった」(同)といいます。
父の生業は好転せず、二田尋常高等小学校開びゃく以来の秀才と言われた角栄は、自ら上級学校進学を断念、15歳で土工の仕事に出ることになるのです。
角栄も苦労人でしたが、母親のフメさんもそれ以上に苦労をした人だったのですね。
1-5、まとめ
そんな母親のフメさんでしたから角栄が政治家になってからも「いい気になるな。でけえことを言うな」と話していました。それは山師だった角次のように失敗するなよ、慎重に生きろよ、という思いだったのでしょうね。
ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。角栄とともに苦労したフメさん、立派な人ですね。その背中を見ているからこそ角栄は政治家になっても努力を続けたのでしょう。官僚を掌握し、勉強し、33本もの議員立法も実現させまた底力は、フメさんにあるのかもしれませんね。以下、まとめになります。
●角栄も素朴な人柄だったが母フメもまた素朴だった。
●決して威張らぬフメ、角栄も背中をみて育った。
●父親の生業不振で苦労つづきの田中家。その苦労が角栄という政治家をつくった。